探検発見 : 白瀬南極探検隊記念館

Created : 2004-03-11

所在地 : 秋田県由利郡金浦町黒川字岩潟 15−3
訪問日 : 2004-03-06
URL : http://www.chokai.ne.jp/copia/kannkou/sirasetop/kinen/kinenkan.htm



今年 (2004 年) 1 月 6 日、NHK 総合テレビ「プロジェクト X」のスペシャル版「南極 未踏の大地へ」が放送されました。
2001 年に放送されたものの再編集映像が主体ではありましたが、本 Web サイトでは直前に砕氷艦「ふじ」の紹介記事を掲載していたこともあり、放送直後から「南極観測船」絡みで多数のアクセスが記録され、その関心の高さを窺わせました。

番組内でも南極からの中継映像やエンディングでその姿が映っていましたが、「宗谷」「ふじ」に続く現在の日本の南極観測船は、海上自衛隊横須賀地方隊所属の砕氷艦「しらせ」(AGB-5002) です。
一般公募をもとに命名されたその艦名は、1910 〜 1912 年にかけて日本人初の南極探検を行った白瀬矗 (のぶ) 陸軍中尉の名にちなんだものです。
もっとも、軍人の名を冠するのは軍艦のようでよろしくない (あるいは、"陸軍"軍人の名は艦艇名としてふさわしくないとか) という配慮からか、「南極・昭和基地付近の『白瀬氷河』に由来する」というのが海自の公式な命名理由となっていますが。
いろいろと「オトナの事情」もあるのでしょうが、艦名募集に応募した人の多くは「白瀬氷河」よりも「白瀬中尉」を想起していたであろう事は想像に難くありません。斯様な訳で、本稿では「しらせ」の艦名は (非公式ではあるが) 白瀬中尉にちなむもの、と言う事にしておきます。


白瀬矗は 1861 (文久元) 年、秋田県由利郡金浦村 (現・金浦町) の浄土真宗浄蓮寺の住職、白瀬友道・マキエ夫妻の長男として生まれ、11 歳のとき、蘭学者佐々木節斎から「北極」の話を聞き、探検家を志すようになりました。
探検家を目指すために仏門を離れ軍人となった白瀬は 1893 (明治 26) 年、「北極を目指すなら先ずは樺太・千島から」と千島探検に参加、千島列島最北端の占守島に上陸します。越冬中、6 名のうち 3 名がビタミン不足による壊血病で死亡するなど、決して成功とは言い難い結果となりましたが、この経験が後の南極探検に大いに役立ったと言われています。

1909 (明治 42) 年、アメリカ人探検家ロバート・E・ピアリーが北極点踏破に成功。
白瀬中尉 (1905 年に中尉任官) は、探検の目標を北極から南極へと 180 度転換することとなります。
1910 年、帝国議会に「南極探検に関する経費請願」を提出、しかし政府からは 1 銭の資金援助も得られず、新聞を通じて民間から義援金を募ります。
探検隊の輸送船には、当初は海軍の退役砲艦「磐城」を使用する予定でしたが、改装費用の折り合いがつかず断念、代わりに木造帆漁船「第二報效丸」に補助エンジン搭載と船体補強を実施したうえで「開南丸」(204 総トン) と命名 (東郷平八郎による命名と言われる)、1910 年 11 月 28 日、白瀬以下 27 名を乗せて東京芝浦埠頭を出港しました。
1911 年 3 月、開南丸は日本の船としては初めて南極圏に到達、南緯 74 度まで南下しましたが、南極は既に冬、氷に行く手を阻まれ止む無くオーストラリアに引き返し、シドニーでキャンプしつつ氷の緩む夏を待つこととなります。

奇しくも白瀬隊と時を同じくして、2 組の探検隊が南極点を目指していました。
ノルウェーのロアルド・アムンセン (Roald Amunsen : 一般には「アムンゼン」と呼ばれているが、ノルウェー語では「アムンセン」と発音するらしい。Roald のカタカナ表記も「ロアール」「ロアルド」と文献により揺らぎがある。本稿では、白瀬記念館での表記に従った) と、イギリスのロバート・F・スコットです。
1911 年 1 月、アムンセン隊はホエール湾に、スコット隊はロス島エバンス岬に相次いで上陸、越冬しつつ機会を窺います。
アムンセン隊は 10 月 15 日にフラムハイム (ベースキャンプの名前) を出発、12 月 14 日に南極点一番乗りを達成し極点にノルウェー国旗を掲揚、1912 年 1 月 25 日にフラムハイムに無事帰投しました。
対するスコット隊の出発は 11 月 1 日、2 週間の出遅れは致命的で、南極点到達はアムンセンに遅れること 35 日後の 1912 年 1 月 18 日、その帰路に全員が遭難死亡するという対照的な結果となっています。

南極で越冬したアムンセン・スコット両隊と比べ、シドニーまで一時撤退を余儀なくされた白瀬隊のハンディは大きく、開南丸がホエール湾に上陸したのは 1912 年 1 月 16 日、アムンセンが南極点に到達してから既に 1 ヶ月が過ぎた後のことでした。このときホエール湾ではアムンセン隊の「フラム号」が本隊の帰投を待っており、極点を目指した白瀬らを待つ間、開南丸とフラム号が互いに表敬訪問するなど交流を深めています。
1 月 20 日、白瀬以下 5 名の突進隊が南極点を目指して出発しましたが、ブリザードと雪盲に苦しめられ、1 月 28 日、南緯 80 度 5 分、西経 156 度 37 分の地点で遂に南進を断念、日章旗を掲揚し、付近一帯の雪原を「大和雪原 (やまとゆきはら)」と命名しました (後の調査で、該当地点は大陸上ではなくロス棚氷の上であることが判明している)。
一番乗りはおろか極点到達すらも断念することとなり、白瀬中尉としては苦渋の決断だったのではないかと思いますが、無謀な危険を冒さず一名の犠牲者も出すことなく全員無事に帰投できたことは (スコット隊の結末を見ても) 正しい判断であったと言えるでしょう。
ただし、全く犠牲が無かった訳ではありません。撤収時にブリザードに襲われ、ソリ引きの樺太犬の収容が間に合わず、28 頭のうち 20 頭を置き去りにせざるを得ませんでした。白瀬はこのことを終生悔やみ、晩年、白瀬が仏前で毎日合掌した「物故者之霊」の中には「犬隊員」の名が含まれていたと言われます。

熱狂をもって帰投を迎えられた白瀬中尉でしたが、その後の人生はその栄光とは裏腹の苦難に満ちたものとなりました。
南極探検の総経費約 12 万 5 千円に対し、義援金の総額は約 7 万 1 千円に過ぎず、開南丸の売却益などで充当したものの、最終的に 4 万円 (現在の額にして 1 億 4000 万 〜 2 億円) 近い借金を白瀬一人が背負う事となったのです。
東京の自宅を売り、各地を転居しながら南極で撮影した映画を持って講演する日々を送ります。
最終的に白瀬は独力で借金を完済したのですが、一時の熱狂が去った後は講演の依頼等も激減したことと思われ、南極探検以上に辛く厳しい後半生だったのではないでしょうか。
1946 (昭和 21) 年 9 月 4 日、滞在先の愛知県豊田市で腸閉塞のために死去 (享年 85 歳)。
その老人のかつての偉業を知る者は誰も居らず、葬儀に訪れる弔問客も少ない、南極探検王の寂しい最期でした。

白瀬が亡くなってから 10 年後、国際地球観測年への参加の一環として、南極越冬観測隊を乗せた海上保安庁巡視船「宗谷」が南極を目指して旅立ち、ここに日本の本格的な南極観測が始まりました。そして 1968 年 12 月 19 日、第 9 次越冬隊の村山雅美以下 12 名から成る極点調査隊が日本人として初めて南極点に到達、志半ばで極点を諦めた白瀬の夢を 56 年越しに叶えたのでした。
1982 年、「しらせ」の名は世界屈指の大型砕氷艦となって蘇り、今日に至るまで南極観測業務を力強くサポートしていることは既に述べたとおりです。


白瀬中尉ゆかりの秋田県金浦町には、その功績を称えると共に現在の南極観測業務を紹介する「白瀬南極探検隊記念館」が開設されています。

JR 羽越本線金浦駅から県道を秋田方面に進み、記念館への案内標識のあるところを右折、国道 7 号線をアンダーパスして竹嶋潟の辺に出ると左折、少し進んだところに記念館があります。
私の足では、金浦駅から徒歩 20 分程でした。


白瀬南極探検隊記念館白瀬南極探検隊記念館。オフシーズンだったためか外装工事中で、作業足場に囲まれていたのがちと惜しい。
中央の円錐形は、氷山をイメージしたもの。

白瀬南極探検隊記念館探検隊の使用した防寒具とテント (共にレプリカ)、および開南丸の船尾部分の実物大復元モデル。
"KWAINAN-MARU" のローマ字 (かな書きすれば「くゎいなんまる」) が泣かせる。

白瀬南極探検隊記念館開南丸乗組員のひとり三宅幸彦 (通訳兼見習運転士) は絵心に富んだ人物で、探検の模様を多数の墨絵に記録しており、その一部が展示されている (写真では、ガラスパネルの映り込みの所為で少々判り辛いが)。
この他、開南丸船長・野村直吉の残したスケッチ画入りの航海日誌も展示されている。今日ほど写真がポピュラーでない時代だったとは言え、当時の船乗りの粋と言うか風流が伺えて興味深い。

白瀬南極探検隊記念館日本人初の南極点到達に成功した村山隊の使用した雪上車、KD605 号の実物。
1968 年 9 月 24 日から 1969 年 2 月 15 日 にかけて、総行程 5,180km を雪上車 4 台で走破した。

白瀬南極探検隊記念館記念館周辺は「南極公園」として整備されており、その一角に白瀬矗辞世の歌の碑が建立されている。
「我れ亡くも必ず探せ南極の地中乃宝世に出すまで」

参考文献


NaritaWorks - A Web Site of M. Narita
Author : Masahiro NARITA (mnarita@anet.ne.jp)
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